みなさん、京都にある「白峰神宮」ってご存知でしたか?
サッカー人気で、この神社(神宮)はますます人気を集めています。
でも、この「白峯神宮」は、大変な歴史があったのですね。
今日は、「白峯神宮」に隠された秘密を、ご案内いたします。
Contents 目次
1、「白峯神宮」、その深い意味
1、崇徳上皇を祀る「白峯神宮」と明治天皇即位の関係は⁉︎
京都市上京区にある「白峯神宮」をご存知の方も多いと思います。
球技全般・スポーツの神様とされ、とりわけサッカーなどスポーツ関係者の参詣も多い神社です。
讃岐の「白峯宮」というのは、崇徳上皇を祀った陵です。
明治天皇は、その白峯宮で勅使に「宣命」を読み上げさせています。
宣命とは、天皇の懺悔文のことです。
その内容はおよそ次のようなものでした。
「あなた様をここに何百年も押し込めっていたことは、大変申し訳なかった。この天皇の世が再びもどって来ることを機に、ぜひ京都にお戻りいただきたい」
というものです。
白峯神宮(京都市上京区)
明治天皇は、この宣命が白峯宮で読み上げられた翌日に、正式な即位をされているのです。
そして、慶応4年(1868年)8月、明治天皇は、父・孝明天皇の意思を継いで、崇徳上皇の神霊を輿に乗せて京都まで運び、京都の真ん中に位置する上京区の良い場所に、白峯神宮を建立したのです。
そして、
祀った後に「明治」と改元
しました。
これは宮内庁の記録に残っている事実です。
つまり、武家に政権が移ったのは、崇徳上皇の呪いによるものだと、朝廷が700年もの間ずっと考えていたということなのです。
2、怨霊って、そもそもあるのか?
まず、〈怨霊(おんりょう)〉って何でしょうか?
それは、生前に不遇な死に方をして、強い怨念を残して亡くなった霊のことを言います。
または、生きている人の怨念の場合も「生き霊」となって災いを起こすことから、これも〈怨霊〉と言います。
私たちはよく幽霊といいますが、日本には「五大幽霊」というのがあります。
それは、次の通り。
- お岩さん(四谷怪談)
- 累(累ヶ淵)
- お菊さん(番町皿屋敷)
- お露(牡丹灯籠)
- 平家一門(耳なし芳一)
これらは「怪談」としてよく知られていますね。
ただ実話ではなく物語上の幽霊です。
でも物語の奥底には、その元になった〈実話〉があったと言われています。
あるいは、いくつかの実話が重なって一つの怪談物語になったのかもしれません。
「お菊さん(番町皿屋敷)」
では、日本の「三代怨霊」ってご存知でしょうか?
それは、次の3人です。
- 平将門
- 菅原道真
- 崇徳天皇(崇徳上皇)
これらはまさに〈実話〉なのです。
実際の歴史上の人物が、「怨霊」となって、その後の人々に災いをもたらしたということなのです。
今回は、この中でも最も怨念が凄まじく、さまざまな怪異現象が起こったとされる、崇徳天皇のお話です。
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2、崇徳上皇はなぜ〈怨霊〉になったのか?
この章では、崇徳上皇がどのようにして〈怨霊〉と呼ばれるようになったのかを見て行きたいと思います。
1、父から疎まれた崇徳天皇
この崇徳天皇(1119年〜1164年)は第七十五代の天皇です。
在位は1123年〜1141年。
この天皇は、生まれた時から、哀れな運命を背負った天皇でした。
彼は、第七十四代の鳥羽天皇の第一皇子ということになっています。
しかし、
実際には曽祖父の白河上皇が鳥羽天皇の中宮である待賢門院璋子に産ませた不義の子
だというのです。
「崇徳上皇」
そのため、崇徳天皇は陰で「おじ子」と呼ばれ、父の鳥羽天皇から疎まれることになりました。
自らの出生の秘密を知らない崇徳は、なぜ父にこれほど疎まれるのか理由がわからずに苦しむことになるのです。
2、「保元の乱」起こる
中でも辛い思いをしたのは、鳥羽上皇から譲位を強いられ、「約束」を反故にされた時でした。
「約束」というのは、鳥羽上皇は、「お前の息子を天皇にしてやるから」と言って退位を迫ったことです。
しかし、この約束は守られなかったのです。
そもそも鳥羽上皇には、崇徳天皇の子を次期天皇にするつもりはなかったのです。
騙して、退位させ、他の妃に産ませた“自分の”子を一刻も早く天皇にしたかったのです。
こうして、近衛天皇(第七十六代)、後白河天皇(第七十七代)になっていきました。
当然、崇徳上皇は、鳥羽上皇を恨みました。
その鳥羽上皇がなくなると、その恨みは後白河天皇に向くことになった。
その結果起きたのが「保元の乱」(1156年)です。
これは、崇徳上皇と後白河天皇の政権をめぐる争いです。
この戦いは、京都の鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったそうですが、午前4時頃始まり、午前8時頃にはほぼ決着がついていたようです。
この戦いに敗れた崇徳上皇は、四国・讃岐国(香川県)に配流されてしまいました。
3、約400年ぶりの上皇の配流
敗れた崇徳上皇側に対する処置は、死刑を復活させるなどの苛烈を極めたと言います。
崇徳上皇は、讃岐に配流となりました。
天皇、もしくは上皇が配流されるのは、奈良時代の藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来のことです。
およそ400年ぶりのことでした。
配流後の話です。
讃岐国で、軟禁生活を送る中、崇徳上皇は仏教に深く傾倒しました。
極楽往生を願い、3年もの年月をかけ、五部大乗経の写本作りに専念したそうです。
五部大乗経とは
法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経のこと。
崇徳上皇は、「自分が天皇の位に執着したために、多くの人が命を落とすことになってしまった」と反省しました。
そして、戦死者の供養と我が反省を込めて写本を後白河天皇に贈ったのです。
そしてそれをしかるべき寺に納めてくれるよう願い出たのです。
「白峯宮」(香川県坂出市)
一方、そのころ都では、後白河天皇は、退位して上皇となり、権勢を振るっていました。
突然の崇徳上皇からの申し出に、
後白河は「これには呪いが込められているに違いない!」と思い、その受け取りを拒否した
のです。
そして写本の納められた蓋を開けもせずに崇徳上皇に送り返してしまったのです。
4、怨霊と化した崇徳上皇
この仕打ちに崇徳上皇は激怒します。
悔しさのあまり、舌を噛み切って血を流し、その地で、写本に次のごとく書きつけました。
「我、日本国の大魔縁(大魔王)となり、皇(おう)をとって民となし、民を皇をなさん、この経を魔道に回向す」
このように大乗経の書写による功徳の力を呪詛へと転化させたのです。
天皇家の地位を失墜させ、自分の死後にも祟りが及ぶよう誓った凄まじい呪詛です。
その後の崇徳上皇は、髪も爪も切らず、やせ衰えて、身の毛もよだつような姿に変貌して憤死したと言います。
9年間の配流生活ののち、怨念を胸中に秘めたまま、46歳の生涯を閉じたのです。
5、崇徳の怨霊、本領を発揮す
罪人として死んだ崇徳上皇は、諡号を贈られることなく、単に「讃岐院」と呼ばれました。
その以外は朝廷の名によって、白峰山(香川県坂出市)の山頂に葬られました。
異変はその時から始まります。
棺を白峰山に運ぶ途中、はげしい雷雨に見舞われました。
そこで、棺を石の上において雨をしのごうとしたのです。
すると、
遺体を納めた棺から血が流れ出した
といいます。
死後20日も立っている遺体が血を流すことなどどう考えてもありえない話です。
人々は、この赤く染まった石を御神体と敷いて、「血の宮」を建てました。
また、遺体を荼毘にふすと、その煙は望郷の念からか、宮古の方向へたなびいたと言います。
その後、崇徳上皇の怨霊は、生前の呪詛のとおり災いが頻発するのです。
まず、崇徳上皇の憤死から12年後の1176年、建春門院(後白河紹鴎の妃)、高松院(後白河上皇の妹)など、後白河や関白藤原忠通に近い人々が相次いで死去したのです。
さらにその翌年には、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀などの事件が起きます。
これを崇徳上皇の「祟り」と考え、精神的に追い詰められた後白河院は、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の島流しの処分をなかったことにしたのです。
さらにそれまで「讃岐院」としていた呼び名を、
「崇徳」と改めた
のです。
この時期以降、時代は、平氏の台頭によって武士の政権に取って代わられています。
まさに崇徳上皇の言葉とおり、「皇(天皇)が民(武士)に取って代わった」のです。
3、なぜ、崇「徳」上皇なのか?
では、なぜ後白河上皇は、讃岐院を「崇徳」と改めたのでしょうか?
実は、
「徳」という字を使うことによって、天皇の怨霊の鎮魂を狙っている
のです。
実際に聖徳太子以降で、諡に「徳」の字がつく天皇は、6人しかいません。
しかもその6人とも不幸な死に方をしているのです。
それは次の通りです。
- 孝徳天皇(第36代、家臣に放置されて旧都で孤独死)
- 称徳天皇(第48代、病死だが、暗殺説あり)
- 文徳天皇(第55代、発病わずか4日で急死)
- 崇徳天皇(第75代)
- 安徳天皇(第81代、二位尼に抱かれて、海中へ投身自殺)
- 順徳天皇(第84代、流罪地で、宮古への帰還を切望しながら憤死)
このように
「徳」の字がつく天皇はことごとく不幸な死に方をしている
のです。
つまり、諡号に「徳」の字をつけることによって、不幸な死に方をした天皇の鎮魂を行なったようです。
4、まとめ
- 京都市の白峯神宮は、明治天皇が、天皇の時代が再び戻ってきたのを機に、崇徳天皇に京の都に戻っていただくために建てられた。
- 実在の歴史上の人物が〈怨霊〉となって、都の人々に災いをもたらした。
- 崇徳上皇は、約400年ぶりに配流され、憤死して〈怨霊〉となった。
- 崇徳上皇の死後、都で様々な災いが起こり、武士の政権が確立した。
- 「徳」の字がつく諡号は、不幸な死に方をした天皇に対する鎮魂の意味がある。
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