パワースポット 歴史

〈楠木正成〉が活躍した、この時代の流れを、わかりやすくまとめてみました。

 

前回は、〈湊川神社〉の記事をのせました。

 

今回は、その御祭神である楠木正成(くすのきまさしげ)のお話です。

 

金運の泉

Contents 目次

1、楠木正成の活躍した時代

1、鎌倉幕府倒幕から、室町幕府まで

 

まず簡単に、楠木正成が活躍しました、この時代の流れをみてみましょう。

 

それは次のようになります。

  1. 後醍醐天皇が、鎌倉幕府の倒幕を考える。(1324年)
  2. 幕府の体制に不満を持ち、天皇親政を正しいと考える楠木正成たち(御家人ではない武士たち)が倒幕に加わる。(1331年)
  3. 足利尊氏、新田義貞など有力御家人が、倒幕に加わる(尊氏は、後醍醐天皇とは目的が違うが)。
  4.  鎌倉幕府の倒幕が成功する。(1333年)
  5. 後醍醐天皇による親政が始まる(建武の新政)(1334年)
  6. 2年もしないうちに足利尊氏ら元御家人たちが、親政に不満を持ち反旗を翻す。
  7. 楠木正成は、「湊川の戦い」で足利尊氏に敗れ、自害する。(1336年)
  8. 後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、これより南北朝時代がはじまる。(同じく1336年)
  9. 足利尊氏による室内幕府が始まる。(1338年)

となります。

では、これを詳しくみていきましょう。

 

〈湊川神社(兵庫県神戸市)〉

 

2、江戸時代以前は「裏切り者」と考えられていた

 

楠木正成ですが、実は、江戸時代以前には正成の評価は、どちらこというと「裏切り者」という感じだったそうです。

 

何故ならば、彼が天皇と組んで武士政権である“幕府”を倒す側だったからです。

 

ところが、江戸時代以降は評価が変わり、忠君の鑑(かがみ)として扱われ始めました。

それは、水戸黄門(徳川家康の孫の徳川光圀のこと)が、天皇に忠節を尽くすべきである、そして天皇に忠を尽くした楠木正成が一番偉いのだ、と考え始めたからです。

 

この黄門様が、湊川の地に楠木正成のお墓を建立したのでした。

そして、明治元年(1868年)には、明治天皇は正成の忠義を後世に伝えるために、神社を作ることを命じたのです。

 

そして、明治5年(1872年)5月24日に、この湊川神社が創建されたのです。

ここで、この神社の特徴があります。

それは次の二つ挙げられます。

  1. 人を御祭神として祀っていること
  2. 明治政府という、「政府」が建てた神社であること

です。

 

 

3、鎌倉幕府の倒幕を考える後醍醐天皇

 

では、楠木正成が歴史の表舞台に登場することになりました鎌倉幕府の倒幕ですが、そもそも何故、後醍醐天皇は幕府を倒そうと思ったのでしょうか?

 

それには次のような理由が挙げられます。

  1. 後醍醐天皇は、「両統迭立」が気に入らなかった
  2. 「院政」を廃して、天皇親政を行おうとした

 

それぞれを詳しくみていきましょう。

1、後醍醐天皇は、「両統迭立」が気に入らなかった

 

当時、天皇の系統は、「持明院統」と「大覚寺統」の二系統に別れておました。

しかも、10年ごとに天皇の位を相手の系統に譲る、というルールがありました。

 

これが、「両統迭立(てつりつ)」です。

 

これは、「文保の和談(ぶんぽうのわだん)」(1317年)で決められたルールです。

〈年号の覚え方は、「いざ柔軟(1317)、両統迭立」って、覚えましょう。(受験用に)〉

 

後醍醐天皇は、大覚寺統でした。

 

そして、天皇の位についた後醍醐天皇は、このルールが気に入らず、ずっと自分が天皇を続けようと思ったのです。

そこで、それを諫めようとする鎌倉幕府が邪魔になって、倒幕を考え始めたのです。

 

〈湊川神社の境内にある「大楠公御一代記」〉

 

2、「院政」を廃して、天皇親政を行おうとした

そして後醍醐天皇は、それまでの、「院政」を廃し、自らが親政を行う、“親政(天皇政治)”を行おうとしたことです。

そして、そもそも親政が思うようにならない根源は、鎌倉幕府にあると思い、倒幕を考え始めたのです。

 

ココがポイント

“院政”というのは、当時、天皇が生きているうちに皇位を後継者に譲って上皇となるわけですが、新たな天皇に代わって政務を行うことです。

 

後醍醐天皇も天皇になったにも関わらず、名ばかりで実権がなく、父である後宇多上皇が実権を握っていたことに不満があったわけです。

 

さらに自身の子である護良親王(もりよししんのう)に皇位継承権がないことにも不満でした。

(のちに謀反の疑いで護良親王を逮捕して足利尊氏に預けてしまいますが)

 

これらの理由により、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、自らが政治の実権を握ろうと思ったのです。

 



2、楠木正成の登場

 

1、倒幕の気運を作った楠木正成

 

さて、後醍醐天皇は、1324年の倒幕計画の発覚や、笠置山(かさぎやま)の戦い(1331年)で隠岐島に流されるなど、失敗を重ねます。

当初は、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして、倒幕に加わるものは少なかったのです。

 

そこに、さっそうと登場して、駆けつけたのが、当時37歳だった楠木正成だったのでです。

そして、この正成の軍が幕府軍と戦って名を挙げたことによって、のちに足利尊氏や新田義貞など有力な全国の“御家人”たちのあいだに、一挙に倒幕の機運が盛り上がるのです。

 

ところで、この楠木正成ですが、足利尊氏や新田義貞のような正規の“御家人”ではなく、運送業などなど、農具用以外の産業を経済基盤としていた武士だったと考えられています。

 

ココがポイント

御家人(ごけにん)といいますのは、鎌倉幕府に使える武士のことです。

ですので正成は、鎌倉幕府の正規の武士ではないですので、兵の動員力も千人程度と、それほど多くはありませんでした。

しかし、正成は天才的軍略家でしたので、幕府軍を相手に戦うことができたのです。

 

 

2、“軍事の天才”の楠木正成の戦略

 

幕府軍は、最初は3万人ほど、のちには10万人ぐらいの兵力を動員したと考えられています。

それ以上かもしれません。太平記ではその十倍の人数が記されているようです。

 

その幕府軍を相手に、正成は、現在の大阪府南河内郡の急峻な山の上に、まずは「赤坂城」(1331年)、次に「千早城」(1333年)という山城(やましろ)を築き、そこに立て籠もって戦うのです。

 

当時の幕府軍の主力は馬に乗って戦う“騎兵”でした。

御家人はすべて騎兵で、御家人以外の兵は主人の馬を走って追いながら戦う歩兵です。

 

その主力である騎兵が、山城では、攻めることが出来ないのです。

 

 

つまり、正成は、急峻な山に立てこもることにより、幕府軍の得意戦法である騎兵での戦いを、封じてしまったのです。

さらに攻めてくる敵を、上から石や大木を落としたり、熱湯をかけたり、わら人形で欺くなどして撃退するわけです。

 

こうして、正成は、自軍より十倍もある幕府軍と戦い、「千早城」では九十日間も持ちこたえて、まんまと逃げることが出来たのです。

 

さて、こうして正成が幕府軍と戦い名を挙げた事によって、それまで鎌倉幕府に不満を抱いていた全国の御家人たちあいだで、

「なんだ、これなら自分たちも鎌倉幕府を相手に、十分に闘えるじゃないか」

って、一挙に倒幕の機運がみなぎってきたのです。

 

当時、足利尊氏や新田義貞は、鎌倉幕府の中でも最強クラスの御家人でした。

その彼らが、自分たちが後醍醐天皇側につけば、幕府は倒せるのではないかと、考え始めたのです。

 

 

3、なぜ、御家人たちは〈鎌倉幕府の倒幕〉にむかったのか

 

では、なぜ全国の御家人達は、鎌倉幕府をみかぎり、後醍醐天皇側についたのでしょうか?

 

これには、次のような鎌倉幕府に対する不満が、蓄積していた事が考えられています。

  1. 二度の「元寇」による、鎌倉幕府への不満の蓄積
  2. 当時の相続法による経済的疲弊

です。詳しくみていきましょう。

 

1、二度の「元寇」による、鎌倉幕府への不満の蓄積

二度の「元寇」(1274年と1281年)という対外戦争により、幕府に対して、不満が強くなってきていました。

〈「元寇」の覚え方は、「イニなよ。イヌわい」と覚えましょう。(笑)

 

これは、元の襲来で戦ったにも関わらず、十分な恩賞がもらえなかったことに原因があります。

 

2、当時の相続法による経済的疲弊

当時の相続法である「均分相続」により、御家人たちは、経済的に疲弊してきていたのです。

 

「均分相続(きんぶんそうぞく)」というのは、当時、子供が複数いれば、その全てに“均等に”財産を分けて相続するというものです。

しかもその場合であっても、御家人を継ぐのはその家の長男一人ですので、代を経るごとに御家人は、財産が減ってきます。

 

そのわりには、公務に対する負担は変わらないのですから、御家人の幕府に対する不満は、当然、高まってくるわけです。

 

4、倒幕が成功する

 

こうして、幕府に不満を持っていた全国の御家人達が、後醍醐天皇側に味方し始めたのです。

 

そして後醍醐天皇は、最終的には鎌倉幕府を倒すことに成功したのでした。

新田義貞が、鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府が滅亡したのが、1333年です。
〈覚え方は、「一味さんざん、負けて鎌倉滅亡」と覚えましょう〉

 

さて、幕府が滅亡したことによって、それまで島流しにされていた後醍醐天皇は、正式に京都に戻ります。

北条氏(鎌倉幕府)が立てた持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を追い払って、自分の政権を確立するのです。

これが「建武の新政」と言われるものの始まりです。

 

このように、鎌倉幕府の滅亡→後醍醐天皇による「建武の親政」は、じつに楠木正成の最初の活躍によって、達成されたのでした。

 

以上が、湊川神社の御祭神である楠木正成公の活躍です。

 

 



3、楠木正成の敗北、そして室町幕府へと新たな時代に

1、目的が違った、後醍醐天皇と足利尊氏

 

さて、ここまで湊川神社の御祭神の楠木正成公について、鎌倉幕府の倒幕成功までをみてみました。

 

正成の働きによって、足利尊氏、新田義貞らが立ち上がり、

鎌倉幕府の滅亡→後醍醐天皇による「建武の親政」

は、達成されたのでした。

 

〈ちなみにこの「建武の新政」(1334年)覚え方は、

「いざ見よ(1334)、ゴーゴー(後醍醐天皇)建武の新政」って覚えましょう(お受験用に。笑)〉

 

しかし、そもそも、後醍醐天皇と足利尊氏は、目標が違っていたのです。

それは次のようになります。

 

A、[後醍醐天皇]

天皇家は王者であり、天皇である自分である。

自分が政治を行う天皇親政の時代に戻るべきである。

従って、幕府というシステムそのものを否定しています。

さらに、自分の後継者には、自分の息子(護良親王[もりよししんのう])に継がせたいと思っていました。

B、[足利尊氏(など、御家人たち)]

北条氏による幕府運営には不満を感じるが、幕府政治(武家政治)そのものには否定はしていない。

むしろ、幕府運営の適任者は、北条氏ではなく源氏の名門である自分である。

つまり、北条氏を倒して幕府をリニューアルするべきだという考えです。

 

このように両者には、鎌倉幕府を倒すという目標は同じでした。

しかし、その最終目標に根本的な違いがあったのです。

 

 

2、武士たちの不満

 

まず、「建武の新政」により、最初から治安が乱れました。

武士たちに新政に対しての大きな不満が溜まってきたのです。

 

その理由として挙げますと、次の様になります。

  1. せっかく先祖からずっと保持していた土地を、新政によって旧所有者である貴族や寺社に奪われる武士がたくさん出てきた
  2. 鎌倉幕府の倒幕にあたって働いた武士たちが、ほとんど恩賞をもらうことが出来なかった

ということが考えられます。

 

そこで、「中先代の乱(なかせんだいのらん)」(1335年)というのが起こります。

これは、北条時行が信濃(長野県)で挙兵したのです。

 

この時には、すでに後醍醐天皇の“新政”に対して、武士たちのあいだでかなりの不満が高まっていました。

特に武士たちの土地所有権を白紙に戻す、という命令が大きかったのでしょう。

 

この時に、足利尊氏が、北条時行の追悼のために、後醍醐天皇の許可を得ないまま兵を挙げ、打ち破るのです。

そして、そのまま鎌倉を拠点として、独自に恩賞を与えるなど、自らの幕府を始める動きを見せ始めるのです。

3、正成破れて、自害する

 

またこの混乱の中で、護良親王は殺されています。

「鎌倉宮(かまくらぐう)」は、この護良親王の功績を讃えて、明治天皇により造営が命じられた神社です。

 

〈鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)〉

 

そこで、後醍醐天皇は、正成や新田義貞らに尊氏追討を命じるのです。

結局、「湊川の戦い」で敗れ、楠木正成は、弟の正季(まさすえ)と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」とお互いに誓い合って、刺し違えて自害することになるのです。(1336年)

 

この時、正成の軍が約700人に対して、尊氏の方は20万人だったといいます。

“桜井の別れ”は、負けることがわかっている戦いの前に、長男の正行(まさつら)に別れを告げる場面で有名です。

 

 

 

 

4、室町幕府のはじまり

 

最終的には、尊氏は新田義貞をも破り、後醍醐天皇を吉野山に追い払います。

 

後醍醐天皇は、南朝となって、南北朝時代」の始まりです。

 

そして、新しい天皇(光明天皇)を立て、この天皇から征夷大将軍に任命されて、「室町幕府」が始まることになるのです。(1338年)

〈年号を覚えたい方は、「いざ都(イザミヤこ)に、室町幕府を」です〉

 

以上、湊川神社のご祭神【楠木正成】を中心としまして、この時代の状況をざっとまとめてみました。

 

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