人間をふくめて、あらゆる動物は、生まれ変わり、輪廻転生する運命にあります。
その輪廻転生は、六道をぐるぐると回る苦しみの世界です。
(六道輪廻については、私の別のページをご参照下さい)
この輪廻の輪から抜け出し、解脱(げだつ)して、ブッダ(仏陀、阿羅漢、アラカン)になることを説いたのが、釈尊の説いた仏教です。
さて釈尊が、人の死後の行く末をどう見ていたか、を記した場面があります。
今日は釈尊が、人の死後の行くところについて、どういう風に語っているかを見てみましょう。
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Contents 目次
1、釈尊が、弟子たちの死後の行くところを語った場面
長阿含経の中の『遊行経(ゆぎょうきょう)』で、釈尊が弟子たちの死後の行く境界(きょうがい)を話されている場面があります。
ただしここでは、修行によってある程度、解脱(げだつ)がすすんだ、自分の弟子たちについての話です。
釈尊が諸所を遊行して、ナーディカムラの公堂に入られたときのことです。
つい先ごろ、この村に悪疫が流行して、おびただしい死人が出て、大騒ぎだったことがあります。
侍者のアーナンダが、村の噂を聞いてその詳細を釈尊のお耳に入れて、こう申し上げました。
「世尊(釈尊)よ、サールハ比丘(出家の弟子)がなくなりました。
ナンダー比丘尼もなくなりました。
今、どこへ生まれているでしょうか?
また、在家の弟子のスダッタもなくなりました。
あの信心深い貴婦人のスジャーターもなくなりました。
それから、在家の弟子のカクダ、カーリンガ、ニカタ、カチッサブハ、ツッタ、サンツッタ、ブハッダ、スブハッダもなくなりました。
悲しいことであります。
みんなどうなっているのでしょうか?
今どこへ生まれていることでしょうか?」
ここに出てくるアーナンダというのは、釈尊の十大弟子のひとりです。
「多聞第一」と言われ、釈尊の従者としてずっと側に付き従っていた弟子です。
疫病によって多くの弟子たちが亡くなったことに対して、師の釈尊に尋ねたのです。
すると、釈尊はこうおっしゃったのです。
「アーナンダよ。
サールハ比丘は、すでに一切の煩悩を断じて、この世で阿羅漢を得ていた。
だから完全なる涅槃に入っている。
また、ナンダー比丘尼は欲界(欲望によって成り立っている世界、つまり我々が生きているこの世界のこと)に生まれるべき五つの煩悩を断ち切っていた。
だから、天界に生まれて、そこで涅槃を得るから、もうこの世界には還らない。
また、スダッタは、三つの煩悩を断じて、その上、貪・瞋のこころが薄らいでいたから、聖者としてもう一度この世に生まれ、この世で涅槃を得るであろう。
また、スジャーターは三つの煩悩を断じ、菩提のこころを持っていたから、この世に生まれてももはや苦しい境界に入らず、早晩、阿羅漢(ブッダ)の悟りに近づいてゆくにちがいない。
また、信心ぶかいカクダ等の八人をはじめ、ナーディカむらで死んだ五十人余は、欲界に生まれるべき五つの煩悩を断じていたから、天界に生まれ、そこで涅槃を得てもうこの欲界へは還らない。
それから、対岸のナーディカむらで死んだ九十人余は、三つの煩悩を断じ、その上、貪・瞋のこころが薄らいでいたから、もう一度この世に生まれて、涅槃を得るであろう。
また、五百人余の信心ぶかい人たちは、三つの煩悩を断じ、菩提のこころを持っていたから、もはやこの世界の苦しい境界には生まれることなく、近い将来、阿羅漢のさとりを開く。
アーナンダよ。
生あるものの死するのは、なにも珍しいことではない
俗世間の人たちのように、いちいちそういうことを尋く(きく)というのはどういうことか。
煩わしく、かつ、無駄なことである。
そんなことよりも、なおいっそう修行にはげんで、死後の生処をよく見るようにせよ」
と、このように答えられたのです。
2、釈尊の死に対する考え方
現在でもそうですが、昔のインドではしばしば伝染病によって、多くの人が亡くなることがありました。
衛生環境が今よりもずっと悪い古代のインドです。
現代で考えられる以上の大パンデミックです。
釈尊の弟子たちも、多くの人が伝染病で亡くなったのです。
ふつうならば、悲嘆の涙にかきくれるところでしょう。
しかし、釈尊には、これらの弟子たちがすべて善処(ぜんしょ。よきところ)へ行っているのが見えているのです。
釈尊にとってはかえって満足なのかもしれません。
むしろ、弟子たちがいくら長生きしたとしても、解脱ができていなくて、いつまでも輪廻の輪の中で苦しみ続けるのならば、それこそ悲嘆の涙にくれるでしょう。
このように、死に対する釈尊のお考えは、私たちとまったく違うのです。
釈尊は、〈死〉を、決して、悲しいものとも、苦しいものとも受け取っていないのです。
むしろ、それは、高い次元へ飛躍し昇華してゆく“跳躍台”であるとお考えなのです。
3、人の持つ十の煩悩
この話で五つの煩悩とか三つの煩悩とかが出てきましたね。
これは次のことを言います。
- 身見(しんけん)
- 疑惑(ぎわく)
- 戒取(かいしゅ)
- 欲貪(よくとん)
- 瞋恚(しんに)
さらに6番目〜10番目の5つの煩悩があり、あわせて十の煩悩があるとされます。
これは1から順々に切れやすい煩悩の順になっています。
このうち、身見、疑惑、戒取の三つの煩悩を断じた人が、シュダオン(須陀洹 )と呼ばれる、第一段階の聖者です。
先に出てきたスジャーターと「五百人余の信心ぶかい人たち」は、このシュダオンに相当します。
次に、身見、疑惑、戒取の三つの煩悩を断じて、4番目の欲貪と5番目の瞋恚が薄らいだ人が、シダゴン(斯陀含)と呼ばれる、第二段階の聖者です。
先に出てきたスダッタと「対岸のナーディカむらで死んだ九十人余」がこれに当たります。
シダゴンになった聖者は、もう一度だけ、この世に人間として生まれてきて、社会を益する大聖行を果たしてから完全解脱して仏界に入ります。
次に、身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚の五つの煩悩を断じた人たちをアナゴン(阿那含)と呼びます。
これが、第三段階の聖者です。
アナゴンになると、ほとんどブッダ(阿羅漢)に近い聖者で、もう二度とこの娑婆世界には戻ってきません。
先に出てきたナンダー比丘尼と「信心ぶかいカクダ等の八人をはじめ、ナーディカむらで死んだ五十人余」がこの境界に入っています。
そして残りの5つの煩悩をも断じて完全解脱したのが、アルハト(阿羅漢・仏陀・大覚者)です。
サールハ比丘は、アルハトにまで到達していたのです。
4、「四沙門果(ししゃもんか)」の聖者たち
つまり、解脱にいたるまでに四段階あるのです。
次の通りになります。
- シュダオン(須陀洹 ) ・・・第一段階の聖者
- シダゴン(斯陀含) ・・・第二段階の聖者
- アナゴン(阿那含) ・・・第三段階の聖者
- アルハト(阿羅漢・仏陀・大覚者)・・・第四段階で最高段階
これを、「四沙門果(ししゃもんか)」の聖者といいます。
釈尊は弟子たちに、その修行法をずっと説いていたわけです。
その伝えた修行法を「七科三十七道品の成仏法」と言います。
これは、「7つのカリキュラム・37種類の修行法」という意味です。
この修行によって、ひとたびシュダオンの境界(レベル)に達すると、もう二度と輪廻の苦しみの輪には戻ることはないのです。
そして、シュダオン→シダゴン→アナゴン→アルハト(仏陀)へと順次進んでいくのです。
5、おわりに
さて、ここまで、釈尊の死についての考えを見てきました。
ここで誤解をしてはいけないことがあります。
それは、釈尊は、「死後の運命」や「来世の行く境界」のことだけを問題にしているのではない、ということです。
死後の運命を変えるということは、生きている今から運命を変えていくということです。
決して「来世成仏」ではないのです。
今、生きている現世を最も重要視しているということです。
どこまでも、今、目の前にある悩み、苦しみの解決が、最も大切にしていることなのです。
未来を変えていくには、今から変わらなければなりません。
「七科三十七道品の成仏法」の修行を始めた時から、人の運命は変わっていきます。
今から、あなたの運命も変われるのです。
6、まとめ
- 輪廻転生は、六道をぐるぐると回る苦しみの世界である
- この輪廻の輪から抜け出し、解脱して、ブッダになることを説いたのが、釈尊の説いた仏教である
- 釈尊は、人の死後の行く境界を語った
- 人には十の煩悩がある
- 「成仏法」の修行を始めた時から、人の運命は変わっていく
輪廻する葦―阿含経講義
【参考文献】
『輪廻する葦』(桐山靖雄著、平川出版社)
『君は誰の輪廻転生(うまれかわり)か』(桐山靖雄著、平川出版社)
『バウッダ[佛教]』(中村元、三枝充悳著、講談社学術文庫)
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