今回のお話は、〈前世の記憶〉についてです。
みなさんは、自分の前世についての記憶はあるでしょうか?
大抵の人はそのような記憶は持っていないと思います。
今日はその問題を取り上げてみたいと思います。
Contents 目次
1、そもそも生まれ変わり(輪廻転生)って、本当にあるのか⁉︎
1、そんなの無い、って言ってしまうのは簡単だが・・・
前世の記憶がないので、そんなのは無いのだ、と言ってしまうことは簡単ですね。
でも、ごく稀に前世の記憶を持っている人がいることは、はっきりしているのです。
それは単なる思い込みとか希望とかではなく、その記憶を元に調査をしてみると、それが事実であったという証明がされているのです。
有名なイアン・スティーヴンソンの『前世を記憶する子供たち』には、そうした科学的な研究の成果が描かれています。
平田篤胤の「勝五郎再生記聞」や、ラフカディオ・ハーンの「勝五郎の転生」には、前世があることの証明となる勝五郎という子供の記録が残されています。
そこまで厳密に考えなくても、私たちも、もしかしたら前世というのはあるのじゃないか、って思うことがありませんか。
2、やはり生まれ変わりがあると考えた方が、納得できることが、いっぱいある
みなさんは、次のような疑問を感じたことはないでしょうか?
- 人間はなぜ、さまざまな性格の違いがあるのか?
- なぜ生まれながらに、頭の良し悪しがあるのだろうか?ある人は天才的な才能があるのに、自分にはまったく無いではないか。それは何故なのだろうか?
- なぜ運が良い人と、運が悪い人がいるのか?
- なぜある人は裕福な家庭に生まれ、ある人は貧乏な家庭に生まれるのだろうか?
こうした疑問に、どう答えを見つけるでしょうか?
それはそんなものだから仕方がない、って考えるのをやめてしまうのも一つの方法です。
でも、現在生きている人生の前に〈前世〉というのがあって、その生き方が現在の人生の“自分”を作っているのではないか、と考えることもできます。
そう考えることによって、より深く、自分の人生というものが理解できるようにもなるやもしれません。
それに、何よりも、「前世というものがあるのだ」って考えた方が楽しいじゃないですか。
その方が、人生の幅が大きく広がると思いますね。
では、確かに人には輪廻転生(生まれ変わり)というのがあって、〈前世〉というものがある、ということを例を挙げてみていきましょう。
2、なぜ前世の記憶がないの?
輪廻転生を考える場合に、まず疑問となるのは、「なぜ前生の記憶がないのか?」ということです。
1、前世の記憶がない生物学的原因
まずはそれを生物学的に考えてみたいと思います。
通常、〈哺乳類〉は、生まれてくる時には母親の産道を通って出てきます。
狭い産道を通って出てくるため、その時に身体に(脳に)、大変な衝撃が襲います。
その時の衝撃によって、それまでの記憶が失われてしまうのだ、と考えられます。
つまり、物理的な衝撃によって、それまでの記憶が失われてしまう、ということです。
一種の記憶喪失ですね。
これが生物学的原因です。
2、記憶があっても表現できない
また、幼少期には前世の記憶が残っている場合がよく報告されています。
しかし、前世の記憶を持っていたとしても、自我が未発達であるために、それを表現できないのが普通です。
言葉を上手く話す事が出来ないのもあります。
稀に、幼少期であるにも関わらず、前生で使っていた外国の言葉で話した事例も残っています。
通常、人は成長するにつれて、現実に生きている“自分”という意識を持った〈自我〉が発達してきます。
自我が発達すると、現実に生きている今の世界がメインとなってきます。
ですので、前世の記憶は次第に薄れて完全に忘れてしまうのです。
これは、我々が日常、夜眠った時に見る夢が、目覚めた後にしばらくは記憶していても、しだいに忘れてしまうのによく似ています。
非常に印象に残った夢も、日常生活の中で、その現実に押しつぶされて、夢はしだいに忘れてしまうのです。
前世の記憶も、〈現世〉という現実世界の中では、しだいに忘れさられてしまうのです。
それでも、衝撃的な記憶は深層意識という無意識の世界に残っています。
それが、子供の頃からの性格傾向に大きな影響があると考えられます。
さらに、精神的な病いや、才能・得意分野、物事の好き嫌いなどにつながっていると考えられるのです。
3、「記憶がないから前世もない」とは言い切れない理由(わけ)がある
前世の記憶がないのは、そもそも生まれ変わりも前世なんてものもないからだ、という人がいます。
そうした方達には、この話はここでおしまいとしましょう。
でも単純に「記憶がないから前世もない」とは言い切れないものを、感じている人も多いのも現実です。
生まれながらの才能や性格がなぜ出来るのか、遺伝や幼少期の環境とか教育の影響だけでは説明が出来ないものがありますね。
そうした事を多くの人が体験的に知っているからでしょう。
さらに、まれにですが、前世を“はっきりと”記憶する人がいるのも事実です。
次章で、これを詳しくみていきたいと思います。
3、牛飼いの廬忻(ろきん)の前世の記憶の話
人は、どのように輪廻転生していくのか。
それはケースバイケースで、人それぞれ違うようですが、それでも一定の法則のようなものがあるかもしれません。
1、倒れている自分の死体を見た、牛飼いの廬忻
ここでは、『増補夷堅志(ぞうほいけんし)』という本の中に、前世を記憶していた廬忻(ろきん)という牛飼いのお話があります。
面白いので、それをまずここにご紹介します。
廬忻は3歳のときにはもう言葉が達者で、母親に向かって、こう言ったという。
おらの前世は回北村の趙氏の子どもで、十九歳のときに、牛を山の下のほうまで追いかけていて、ちょうど秋の雨が降ったあとで草が湿って滑りやすくなっていたため、崖下に堕ちてしまったんだ。
何とか気を確かにもって立ち上がってみたところ、自分の傍に一人の男が倒れている。
牛飼いが、自分と同じように滑って崖下に落ちたのかと、大声で呼びかけたが、反応がない。
しばらくのち、落ち着いて倒れている人を見ると、何とそれは自分自身であった。
その体に入ろうと思い、いろいろ試してみたが、できなかった。
でも体を捨てるのは忍び難くて、体の周囲をぐるぐる回ってその夜を過ごした。
なんと、廬忻は、崖から落ちて倒れている人が、自分だったと気づくのですね。
そして、その自分の身体に何度も入り込もうとしているのです。
2、自分の身体が火葬されるのを見た廬忻
つづきを見てみましょう。
翌日、父母がやって来て、遺体を見つけ慟哭した。
自分はその場にいたので、何とかここにいることを伝えようとしたが、気付いてもらえなかった。
やがて、父母が自分を火葬にするため、その体に火をつけた。
そのときも、『焼かないで、焼かないで』となんども言ったけれども、父母には聞こえないようで、反応はなかった。
火葬が終わると、お骨をツボに納めて去って行った。
自分も付いて行こうと思ったが、父母は三メートル以上という身長で、そのあまりの大きさに恐ろしくなって、付いていくことができなかった。
そのあとは、どうしていいかわからず、そのあたりを寄る辺なくさまようしかなかった。
一ヶ月余りたったとき、一人の老人と出会った。
その老人が「わしが汝を連れて行って帰してやろう」というので、付いていくと、ある家に着いた。
老人はその家を指さして、「これが汝の家だ」と行った。
それで、ここに生まれて来た。
それが今のおらなんだ。
以上、見てきましたように自分が死んだ時の状況をはっきりと記憶しているお話が記録されています。
いろいろとある生まれ変わり(輪廻転生)の話では、普通、別の家庭に生まれ変わっているものです。
しかし、このお話の場合、廬忻は前生で17歳で崖から落下して死んだのちに、再び同じ家に生まれ変わっています。
しかも、“老人”が現れて、そのアドバイスで次の生を受けています。
これは非常に珍しい例といえるでしょう。
もっとも『夷堅志』は中国南宋の本で、1198年成立というかなり古い説話集のため、どこまで内容が信用できるのか疑問符がつきます。
この中で、自分の死体に入ろうとしたり、死体の周囲をぐるぐる回るところが出てきますね。
こうしたところは『チベットの死者の書』にも同じような記述が出てきます。
次にそれを見てみましょう。
4、『チベットの死者の書』
1、チベットの埋蔵経典
チベットには有名な『死者の書』というのがあります。
ここでは、先にご紹介しました牛飼いの話に共通するところがありますので、それを見てみましょう。
この時における喜びも苦しみもすべて生前のカルマン(業)次第で決まる。
汝は自分自身の故郷の地、一族、親戚、自分の死体などを見る事ができる。
《今、私は死んでいるのだ。どうしよう》と考えて、汝の意識からできている身体は非常な悲しみを味わうであろう。
《いま、もう一つ別の身体を持ったところで何の不都合があるだろうか》と考えて、あらゆるところに身体を求めて行こうとする願いが何時に生じるであろう。
汝はそこにある自分の身体に九回も入り込もうとする。
『死者の書』は、チベット仏教の祖パドマサンバヴァ(8世紀の人)が霊的な啓示を受けて著述したものです。
それを弟子のイェシェツォギェルによってガムポダル山中に埋蔵されたとされています。
ですので《埋蔵経典》と言われます。
その後、14世紀にリクジン・カルマリンパが発掘し秘経としてチベット仏教・ニンマ派に伝承されました。
2、牛飼い廬忻の話との共通性
上に紹介しました廬忻(ろきん)という牛飼いのお話は、8世紀に作られたチベットの『死者の書』が何らかのルートで、南宋に伝えられ、説話としてまとめられたものかもしれません。
でもチベット『死者の書』は14世紀まで埋蔵されていて伝承されなかったわけです。
そう考えると、廬忻のお話もあながち作り話とは言えないのではないかとも考えられるのです。
また、〈臨死体験〉の体外離脱にも似ていますね。
臨死体験をした人の中には、意識を失ったときにベッドに横たわった自分の姿を見たり、その自分を手術している医師や看護師の姿を見たりするのが多数報告されています。
12世紀の南宋の本に、現代の臨死体験の報告と似た話が生まれ変わりの話として出てくるのは面白いですね。
『チベットの死者の書』については、以前に別のページでご紹介しましたのでそれをご参照ください。
今回は、なぜ前世の記憶がない場合が多いのかについて考えてみました。
5、まとめ
- ごく稀に前世の記憶を持っている人がいることは、はっきりしている
- 現在生きている人生の前に〈前世〉というのがあって、その生き方が現在の人生の“自分”を作っているのではないか
- 胎児は狭い産道を通って出てくるため、その時の衝撃によって、それまでの記憶が失われてしまう
- 前世の記憶を持っていたとしても、自我が未発達であるために、それを表現できない
- それでも、衝撃的な記憶は深層意識という無意識の世界に残っていて、性格や才能、精神的な病を形成する
- 『増補夷堅志(ぞうほいけんし)』という本の中に、前世を記憶していた廬忻(ろきん)という牛飼いのお話がある
- 『チベットの死者の書』にも共通する点がある
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