歴史

熊野三山と「補陀落渡海(ふだらくとかい)」・・・日本に、こんな世界があった!

 

みなさん、「補陀落渡海」というものをご存知でしょうか?

これは、昔の日本で行われました、“修行”なのです。

 

今回は、この「補陀落渡海」についてのお話です。


Contents 目次

1、死をかけての修行

 

まず、「補陀落」とは、古代インドのサンスクリット語の「ポータカラ」からきています。

意味は、「観音菩薩が住む観音浄土」ということです。

 

その補陀落という観音様の浄土が南方の海上にあると言われていました。

そこで人々は、浄土を目指してその方向に向かって海の彼方に向かっていったのです。

そして、あちら(浄土)に行ってしまうわけですから、二度とこちら(この世)には帰ってこない、ということです。

 

僧侶だけでなく武士や庶民さえも海を渡ったようです。

 

この補陀落渡海が、かつての日本では盛んに行われたのですね。

補陀落渡海を試みた人たちは、生身のままで浄土に行こうと願っていたのです。

生きながら、〈入水往生(じゅすいおうじょう)〉を願ったのです。

 

北は茨城県の那珂湊(なかみなと)の海岸から、南は鹿児島県の加世田まで、全国でその跡地があります。

その中でも、最も補陀落渡海が盛んだったのは、和歌山県の熊野那智の海岸です。

 

その海岸線近くに補陀洛山寺(ふだらくさんじ)というのがあります。

 

ここは、和歌山県の公式ガイドには、次のように紹介されています。

紀勢本線JR那智駅から前にあり、渡海上人達をおまつりしております。

お寺も南面に広がる浜の宮海岸は、平安時代からおよそ千年に渡って南海の果てにあると信じられていた観音浄土を目指して渡海上人が、釘付けされた船の中に座り補陀落渡海に出発したところでもあります。

御本尊である千手観音は、平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。千手は、あらゆる衆生を救済しようとする慈悲と力の広大さを表しています。ご尊顔や温雅な表情にも慈徳がうかがえます。

ここで補陀落渡海が盛んに行われたのは、那智山が、補陀洛山の東門であるという信仰が生まれていたからです。

 

補陀洛山寺(那智勝浦町)

 

2、補陀落渡海がもっとも盛んに行われた、熊野那智海岸

 

さて、熊野といいますと、「熊野詣(くまのもうで)」が有名です。

 

熊野三山として、次の有名な神社がありますね。

  • 熊野本宮大社
  • 熊野速玉大社
  • 熊野那智大社

この三社に参ろうとする「熊野詣」は、平安時代の中期に盛んになったといわれています。

 

熊野那智大社

 

特に白河上皇から、後鳥羽上皇までの4代の条項は、合計でここに100回を超える「熊野御幸」を行なったとされているほどです。

さらに、鎌倉時代になると、武士や庶民の間にも、「熊野詣」が広まっていきました。

こうした神聖な熊野三山を背景に発達したのが、「補陀落渡海」なのです。

 

この『補陀落渡海』は、868(貞観10)年の慶竜上人の時から始まり、1722(享保7)年の宥照上人まで続いたとされております。

境内に設置された石碑には、平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人が渡海したとされているのです。

 

この人数は、熊野補陀落寺から出発した人数です。

ですので、他の地域も入れるともっと多くの人が補陀落渡海を行っていると推測できます。

 

補陀洛山寺の住職は代々、渡海上人となって、補陀落渡海を希望する人の世話をして、儀式を行い、海に送り出したといいます。

 

3、釘を打ち付けて、渡海者が出られなくしていた

 

では、どのようにして渡海する人を海に送り出したのでしょうか?

 

『吾妻鏡』によりますと、渡海者が屋形船に乗り込みますと、外から板が釘で打ち付けられたそうです。

中には、一月分ほどの食料と灯火用の油は準備されていたそうです。

舟には窓も扉もありません。

まさに棺の中に入ったような状態で、東方の海の彼方に送り出されたようです。

 

社寺参詣曼荼羅で有名なものに、『熊野那智参詣曼荼羅』があります。

 

 

それをみると、下の方に鳥居の前で、これから補陀落渡海をしようとする人が描かれています。

山伏装束をしていて、舟の四方には、鳥居が建てらています。

鳥居と鳥居の間は、卒塔婆で組まれた忌垣がめぐらされています。

 

こうした舟に入り、東方の海に送り出されました。

そして荒波に飲まれて、舟もろとも海の藻屑と消え去ったのでしょう。

永禄五年(1562年)に、堺から補陀落渡海を試みた人がいました。

その時にはなんと、七人の同行者がいて、一緒に渡海したようです。

彼らはみな、舟に乗る時に、身体に大石を縛り付けて、袖にも石を満たしていたといいます。

 

つまり、船が難破した時に身体が投げてしまい、そのままどこかの島にたどり着いてしまわないようにしたのでしょう。

確実に浄土へ行けるようにとの願いを込めて工夫したのでしょうね。

 

この曼荼羅には、補陀落渡海をしようとする人の両脇に同行者も描かれています。

補陀落渡海の最盛期には、こうした同行者も一緒に旅立っていくことがあったようです。

 

本来は、「浄土へ行きたい」という本人の意思で補陀落渡海をするのですが、明らかに死後に、海に送り出された例もあるようです。

そのため近世になると、形骸化して、完全に葬送儀礼になってしまいます。

 

復元された補陀落渡海舟

 

4、補陀落渡海で生き延びた人

 

さて、まれにには、補陀落渡海で海に送り出されたものの、そのまま死ねずに(浄土に行けずに)生き延びた人もいました。

 

日秀上人は1503年に上野国に生まれた人です。

この日秀上人は、19歳の時に人を殺してしまい、そこから懺悔発心して、高野山で出家したのです。

そしてすぐに、那智の海岸から出口のない舟に乗って、補陀落渡海したのです。

しかし、その七日後には琉球に流れ着いたそうです。

往生できなかった日秀上人は、その後、琉球や薩摩で、補陀落渡海僧として、活動します。

寺社の再興などを行なったといいます。

 

この日秀上人は、1577年に亡くなっています。

なんと74歳までの長命です。

現在に比べると平均寿命はかなり低い時代です。

今の感覚でいうならば、100歳以上まで生きて大往生を遂げたといえるでしょう。

 

さて、このように補陀落渡海を試みて生き残った人は少ないようです。

海で死んでこそ浄土に行けるわけですから、失敗しないように確実に入水往生できるように、いろいろな方法を工夫していたようです。

 

5、浄土へ行けることを願った人たち

 

グスマンが書いた『東方伝道史』によると、

「補陀落渡海の舟は、沖に出た時、海水が浸水して沈むようにと、船底に穴を開けていた」

とあります。

 

さらに、同書によると、補陀落渡海をする人を見ていた人々が、

「さめざめと泣いて、彼らの幸運な運命を羨望する」とあります。

 

この時代の人たちは、戦乱の時代にあって生活の貧しさもあり、浄土に行けることが羨ましかったのでしょう。

 

補陀落渡海を目にした宣教師のガスパル・ヴィレラは、次のような報告を故国のイエズス会に送っています。

「彼らが舟に乗り、海に送り出される時、大いに歓喜しているのを見て、非常に驚いた」

と。

『熊野那智参詣曼荼羅』

 

6、「浄土」と「天国」の違い

 

ちなみに、「浄土」といいますのは、いわゆる「天国」とは違います。

 

浄土では、釈迦如来や阿弥陀如来をはじめとする仏たちがいます。

そこで仏様から、ありがたい教えを授かって、“悟り”を目指して、一生懸命に修行に励む場所なのです。

俗世間的な欲望や苦しみに悩まされずに、一心に修行に励むことができる神聖な場所。

これが「浄土」なのです。

つまり、浄土は、安らぎの場というよりも、純粋に悟りを目指して修行に励むことができる〈活動の場所〉だといえます。

 

「天国」のような手放しでの安らぎの場所ではないのです。

 

昔の日本人が、浄土に対して、どこまでこうしたイメージを描いていたかはわかりません。

しかし、これまで見たことから、「補陀落渡海」は、現代人が考えるような、〈入水自殺〉とはかなり違ったものであったことは間違いありませんね。

 

みなさんも、熊野三山を訪れるときには、「補陀落渡海」というものがあったことをおもいだしていくと、より深い旅になるでしょう。

 

 

今回は、日本の特異な修行とも言えます、「補陀落渡海」について簡単にまとめてみました。

 

7、まとめ

 

  • 「補陀落」とは、古代インドのサンスクリット語の「ポータカラ」からきていて、「観音菩薩が住む観音浄土」という意味である
  • 補陀落渡海を試みた人たちは、生身のままで浄土に行こうと願っていた
  • 熊野那智海岸で、補陀落渡海がもっとも盛んに行われた
  • 同行者も一緒に旅立っていくことがあった
  • 「浄土」とは、仏様から、ありがたい教えを授かって、“悟り”を目指して、一生懸命に修行に励む場所

 


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