みなさん、こんにちは。
1961年、第35代アメリカ合衆国大統領に就任したのが、ケネディ大統領です。
その2年後、このケネディ大統領が暗殺されるという衝撃的に大事件が起きたのです。
今日は、「ケネディ大統領の暗殺」について、真実と背景、間違いを指摘してみます。
Contents 目次
1、ケネディ大統領暗殺の瞬間
1、日本にも衝撃のニュースが伝えられる
そのケネディが暗殺されたのは、1963年11月22日午後12時30分のことです。
翌年に大統領選を控え、テキサス州ダラスでの遊説に向かう途中のパレードでの悲劇でした。
暗殺時のパレード車には、ケネディ大統領の右横には、ファーストレディのジャクリーンが乗っていました。
前には、テキサス州知事ジョン・コナリーと妻のネリー夫人が乗っています。
この4人を乗せたオープンカーはダラスの空港からダウンタウンに向かっていたのです。
その途中、5発の銃弾がオープンカーを襲い、そのうち3発がケネディ大統領に命中し、5発目が致命傷となっています。
(よく発射されたのは3発と言われていますが、それは間違いです。)
頭部に致命的な負傷を負ったケネディはパークランド・メモリアル病院で死亡が確認されたようです。
ケネディ大統領暗殺のニュースは、すぐに世界に衛星生中継されることになりました。
キューバ危機やベルリンの壁、米ソ宇宙開発競争など激動の時代に直面した「アメリカの希望の星」と言われる大統領でした。
その模様は日本でも、通信衛星による初の日米間の衛星中継において、事件の詳細が伝えられ、大きな衝撃を与えました。
2、大統領暗殺の6秒間
ここではケネディ大統領が狙撃された状況を、詳しく見ていきましょう。
12時30分、大統領のクルマはゆっくりと「ヒューストン通り」を曲がり、「エルム通り」に入りました。
ダラス到着後わずか1時間20分の時点です。
パレードは終わり近づいていました。
エルムを通ってステモンズ・フリーウェイに入れば、あとは昼食会会場のトレード・センター・ビルには5分で着きます。
エルム通りに入ってから、その穏やかな下り坂を大統領のクルマは“ゆっくり”と走っていった。
後ろにぴったりとくっついているはずのシークレット・サービスの護衛車は、この時はなぜか、20メートルも離れていた。
大統領のオープンカーがエルム通りにはいって約40メートル進んだ時、突然パーンという乾いた音が響き渡った。
その瞬間、ケネディは両手を胸のあたりに持ってくる動作をした(1発目)。
前方の木の茂った丘の後ろ側から1発目が発射されたのです。
それが大統領の首に命中したのです。
次の瞬間、真うしろのダル・テックス・ビルから2発目が発射される。
その弾は、ケネディの右肩に命中した(2発目)。
ほとんど同時に、TSBDビルからも発射される。
それはケネディには当たらず、彼の前に座っていたコナリー・テキサス州知事の胸を貫通した(3発目)。
2発目と3発目はほとんど時間的に差がなかったため、聴くものには1発の銃声と聞こえたようです。
この時点ではケネディ大統領は、まだ致命傷を受けていなかったのです。
4発目がダル・テックス・ビルから発射される。
しかし、この弾丸は完全にそれて、コマース通りのカーブの縁に当たっています(4発目)。
その時、この地点に立っていたジェームス・テーグという男性は、コンクリートの破片でほおを傷つけられています。
何発目が当たったかと聞かれたとき、彼は3発目だったと思うと答えている。
2発目と3発目があまりに近かったため、それが同一に聞こえ4発目を3発目だと思ったのでしょう。
2発目が大統領の肩下に当たったとき、後続車に乗っていたシークレット・サービスマンの一人、クリント・ヒルは車を飛び降り、懸命に大統領のクルマめがけて走っていた。
3発目の弾丸がコナリー州知事に当たって、体が隣の夫人の腕の中に倒れた瞬間、同時にクリント・ヒルが、5メートルほどまで近づいたとき、右手の丘の上から発射された弾が、大統領の右後頭部を撃ち抜いた(5発目)。
(パニックで、飛び散った脳みそを集めようとするジャクリーン夫人)
弾丸の衝撃でケネディの右東部は吹き飛び、替えの体はジャクリーン夫人の方に倒れる。
その瞬間、大統領の左後方にいたハージス巡査は、白バイもろとも鮮血と脳みそで覆われた。
シークレット・サービスのクリント・ヒルが車に飛びついた時、ジャクリーン大統領夫人は、パニック状態になって散らばった脳みそをかけらや耳を必死に集めようとしてトランクの上を這いつくばっていた。
ヒルは、ジャクリーン夫人を強引に後部座席に引き戻した。
その後、大統領者は猛スピードで、パクランド病院へと向かったのです。
この間、わずか6秒の出来事でした。
大統領は即死でした。
2、ケネディの時代の世界状況
ここでは、ケネディ大統領がなぜ暗殺されたのか、その時代背景をみてみましょう。
1、アメリカ1強の時代
ケネディが大統領選に打って出た時の世界情勢は、米ソ両超大国が世界を二分していた時代でした。
それぞれのテリトリーでの影響力は絶大で、ある種の秩序と安定感があったのです。
それは米ソという大国による「核兵器の対決」という背景があったからです。
アメリカは軍事的には2・5戦争を同時に遂行するという戦略をベースにしていました。
「2・5戦略」とは、ヨーロッパにおける対ソ戦、極東における対中国戦という二つの大戦争と、中東や他の地域での中規模の戦争を同時に遂行するというものです。
これなどは、今日のアメリカにはとても考えられないことです。
当時のアメリカは、確かにその能力を持っていたのです。
対ソ戦においても、核戦争の開始に当たって、アメリカは最初の一撃を与えず、ソ連側の一撃を受けてから報復を開始しても余裕で勝てると言われています。
当時、あるペンタゴンの将軍は、もしアメリカが採捕の一撃を受けても、それんを25回埋めるだけの与力が残っていると豪語していました。
結局、「米ソ両超大国」とは言っても、現実には、アメリカが唯一のスーパーパワーだったのです。
2、「キューバ危機」で核戦争の危機
ケネディ大統領は、就任して3ヶ月目にして、まずピッグズ湾事件、その2ヶ月後に、ベルリンをめぐるフルシチョフとの対決(ベルリンの壁建設)を迎えています。
そして、1962年10月にはキューバ危機が起きるのです。
これは、キューバに攻撃用中距離ミサイルおよび準中距離ミサイルがソ連によって持ち込まれたことに始まります。
この事実が発覚した時、アメリカ軍部と議会の反応は凄まじいものがあったといいます。
ハト派といわれるフルブライト上院議員でさえ、即キューバ侵攻と爆撃をケネディに進言したほどです。
統合参謀本部の将軍達やCIAの、軍事力行使の圧力は非常に強力でした。
しかし、ケネディは、あえて軍部やCIAの助言と圧力に従わず、ソ連のフルシチョフとの対話を進めていったのです。
〈当時のソ連の最高指導者 ニキータ・フルシチョフ〉
もし、アメリカ軍をキューバに投入したらどうなっていたでしょう。
もちろん簡単に、キューバを共産主義者から取り戻すことができたでしょう。
しかし、その場合、その軍事的行為がもたらすアメリカのイメージダウンははかりしれないものとなっていたでしょう。
アメリカの威信と信頼は地に堕ち自由世界のリーダーとしての地位さえ危うくなりかねないものでした。
キューバという一国を取り戻すために、これだけのコストを支払わねばならぬのなら、その価値はない、と彼は考えたのです。
これは明らかに、それまでのリーダーの考えとは異なっています。
それまでのアメリカの大統領だったならば、いかに世界から叩かれ批判されようが、共産主義という悪魔からキューバを救うためなら、ためらいなく軍事行動を起こしていたでしょう。
世界が何を言おうが、アメリカがナンバー・ワンである。
自由世界はアメリカの保護なくしてはやっていけないという自負があったからです。
その裏には、アメリカ至上主義に貫かれた傲慢さがあります。
ケネディーは明らかにそれまでのリーダーたちとは違うタイプのリーダーだったのです。
3、なぜ暗殺されたか
1、ベトナム戦争から撤退しようとしていたケネディ
アメリカがベトナムに介入し始めたのは、1950年代の初めからです。
当時はフランス軍が、ホー・チ・ミン率いるベトミンと戦っていたが、アメリカのCIAはフランスをサポートするという口実で次第に介入し始めたのです。
ケネディが大統領になった時には、ベトナムにすでに4000人にのぼる軍事顧問団が送り込まれていました。
軍事顧問とは、外国に派遣され、派遣先の軍隊の組織編成や訓練、戦闘指揮などに協力する軍事専門家のことです。
CIAや軍部は、ケネディに対して、ベトナムに正規軍を送り込むように進言しました。
しかし、ケネディはそれを拒否。
代わりに妥協案として、軍事顧問団の増強は認めました。
1963年の時点で、その数は15,000人に達しています。
軍部やCIAは執拗に正規軍の投入を主張し続ける。
しかし、ケネディはガンとして譲らない。
(アレン・ダレスCIA長官)
それどころか、彼は軍事顧問団の撤退を記者会見で発表したのです。
「今年の末までに1,000人の軍事顧問団を引き上げる予定である」
この直後、国防長官ロバート・マクナマラは同じことを繰り返した上で、1965年までに軍事顧問団全員をベトナムから引き上げると発表しています。
よくケネディーは、ベトナム戦争に積極的に軍事支援をした、と言われますが、実際には、引き上げようとしていたのです。
しかし、これは実現されることはありませんでした。
1,000人の引き上げを発表した22日後、ケネディは暗殺されてしまったからです。
2、軍部、CIAを敵に回したため暗殺された
こうした出来事があり、次第にケネディと軍部やCIAとの対立が深まってきたようです。
「ケネディは、国家にとって、危険人物であり、できるだけ早く処理をしなければならない」
こうしたコンセンサスが、ベトナム政策を通して軍部とCIAの中で決定的なものとなっていたのです。
翌1964年は大統領選が控えていました。
ケネディの人気は根強く、当選は確実なものと思われていました。
軍部やCIAは次のように考えました。
「軍事顧問団が引き上げてしまえば、軍部のベトナム介入のきっかけはなくなってしまう。
東南アジアへ侵攻する最後の足がかりが消えてしまう。
1965年までケネディが生き続ければ、必ず撤退は実行されるだろう。
なんとかせねばならない」
ここで彼ら軍部、CIAは、大統領の暗殺という計画を具体的に行動に移すことになったのです。
以上が、ケネディが暗殺された背景です。
暗殺の具体的な実行には、マフィアの狙撃手が使われています。
サントス・トラフィカンテ、ジョニー・ロゼリ、サム・ジアンカーナといったマフィアのボスが、
射撃の名手のヒットマンを準備して、パレード当日に配置したといいます。
(もちろん、オズワルトは犯人ではありません。)
〈マフィアのボス、サム・ジアンカーナ〉
4、ケネディ暗殺によって失われた、その後の平和
もしケネディが暗殺されすに、大統領を続けていたとしたらどうなっていたでしょうか。
その場合は、ソ連のフルシチョフも失脚しなかったでしょう。
そして、米ソ関係は上昇気流に乗り、アメリカのソ連へのテコ入れは本格的になり、ソ連経済は、かなり自由化されていた可能性があります。
経済的に発展してすれば、ソ連邦を構成する各共和国は、ソ連邦に対して強く反感を持つことはなかった。
そして、数々の流血の惨事や紛争は起きなかったかもしれません。
しかし、彼の突然の死は、その歴史の動きを止めてしまったのです。
ケネディという一人の偉大な人間の死によって、その後、無数の人が流血の犠牲となっていったのです。
ケネディ大統領暗殺については、これからもより詳しく追求して、このBlog記事にて書いていこうと思っています。
みなさんも、わたくしと一緒に、国際情勢を生きませんか?
5、まとめ
- 1963年11月22日、翌年に大統領選を控え、テキサス州ダラスでの遊説に向かう途中のパレードで暗殺された
- 5発の銃弾がオープンカーを襲い、3発がケネディ大統領に命中、3発目が致命傷となった
- 当時は、「米ソ両超大国」とは言っても、現実には、アメリカが唯一のスーパーパワーだった
- ケネディ大統領は、ベトナム戦争から撤退しようとしていた
- 軍部、CIAを敵に回したため、マフィアの狙撃手によって暗殺された
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