前回は、釈尊(ブッダ、釈迦)が説いた教えは、ただ一つ阿含経経(あごんぎょう)』のみに記されているという事をお話しました。⬇︎
阿含経(あごんぎょう)・・・これが、ブッダ釈尊が説いた唯一のお経だ!
実は、釈尊の教団は、釈尊がお亡くなりになったあとに、大分裂していたのです。
それは、なぜなのでしょうか?
今回は、「根本二大分裂」について、説明していきたいと思います。
Contents 目次
1、「根本二大分裂」の歴史における意味は?
1、上座部と大衆部
釈尊(ブッダ、釈迦)が亡くなって、およそ百年から百十年くらいのことです。
仏教の教団が大きく二つに分裂したのです。
どんな組織でも、分裂はするものですね。
初期の仏教の組織も、いろいろな事情で分裂してしまったのです。
これを「根本二大分裂」と言います。
二つのグループの一方を、〈上座部(じょうざぶ)〉または〈長老部〉といいます。
もう一方を〈大衆部(だいしゅぶ)〉といいます。
2、〈大衆部〉がのちに『大乗仏教』をつくった
「根本二大分裂」の時に、〈大衆部〉が外に飛び出したのです。
この〈大衆部〉の人たちが、のちに、自分たちの主張を盛った経典を、つぎつぎと作り始めたのです。
その経典が『般若経』『華厳経』『法華経』『観無量寿経』『維摩経』などでした。
これが、いわゆる「大乗仏教経典」と言われる諸経典です。
そして、この外に飛び出したグループの人たちは、自分たちを『大乗』と呼び始めました。
これは、文字通り「大きな乗り物」という意味です。
これが、そののちに大きく発展していく『大乗仏教』となっていくのですね。
このように、「根本二大分裂」はのちの仏教の歴史に、大きな意味があるのです。
次に、ここに至るまでの事情を詳しく見てみましょう。
2、なぜ「根本二大分裂」は起きたのか?
1、社会構造の大きな変化があった
釈尊がお亡くなりになったのち100年の間のことです。
仏教教団の所在地であった中部インド・マガダ地方に、大きな社会構造の変化が起き始めました。
それはこの地方が、現在の言葉でいうならば、「高度経済成長の時代」に入ったのです。
マガダ地方は、それまでは、どちらかと言えば、東方の辺境な地方でした。
そこが急激な発展期に入ったのです。
その発展の担い手は、強大な権力をにぎった王族と、商業を主とする都市の資産社会層でした。
仏教やジャイナ教がこの地方を拠点にして急速に発展したのは、ひとえに、これら新勢力の支持を得たからでした。
そうなると、在家の信者が増加し始めます。
それは、どういうことか?
2、在家信者の発言力の増大
もともと、釈尊がご在世のころは、一所不定で夏安居(げあんご)の時以外は、ほとんど遊行して歩いていました。
決まった定住場所がなかったのです。
ですので、釈尊に従う弟子たちも出家の修行者でした。
それが、都市に僧院として定着するようになると、急速に在家の信者が増加し始めたのです。
いや、経済の発展によって、在家の信者が増加したから、一定の場所に定着したとも言えます。
そうして、いったん都市に定着するようになった僧院は、経営上、どうしても在家の信者の経済的協力を必要とするようになっていきました。
このことは、当然、在家信者の、教団にたいする発言力の増大ということにつながっていきます。
そこで、教団としては、この人たちの要望にどう対応するか、ということが大きな課題になってきたのです。
3、長老たちは、〈在家信者〉の受け入れに反対する
在家信者をどう考えるか。
これは教団の運営にとって、重大な問題でした。
在家の人たちを受け入れるのか、受け入れないのか。
受け入れるとしたら、どのような形で受け入れるのか。
このころにはこうした時代の変化に対応できるリーダがいなかったのです。
釈尊からじかに指導を受けた優れた弟子たちは、すでにみな世を去っていなかった。
長老たちのほとんどは、受け入れることに反対でした。
これまで、釈尊以来の僧院は、ひたすら解脱(ニルヴァーナ)を求めて、修行に専念してきたのです。
戒律と瞑想、ときには苦行も行われる。
これが釈尊以来の伝統でした。
しかし、在家の人たちに、こういうきびしい修行ができるはずはない。
信心こそあれ、釈尊の伝えられた厳しい修行のできないこういった人たちの、僧院への立ち入りは、僧院の厳粛な空気を乱すだろう。
戒律をそこね、他の修行者たちの道心をかき乱す恐れがある。
ひいては、釈尊以来の伝統が破られてしまう。
こう、長老たちは考えたのです。
もっとも実際には、釈尊は、決して〈出家至上主義者〉ではありません。
多くの優れた在家の修行者を指導し、育成しています。
ですので、長老たちが在家信者の受け入れを拒否するのは、理屈に合わないのです。
4、革新派は、〈在家信者〉の受け入れを考えた
これに対して、革新派の比丘たちは、真っ向から反対することになります。
時代の変化に連れて、教団も対応していくべきだと主張したのです。
そうしなければ、時代から取り残され、釈尊の教法もついに時代遅れのものとなって消滅してしますだろう。
熱心な在家信者を吸収教化し、大いに教線を拡大していくべきだという意見です。
この時代は仏教と同じく、他のいくつもの宗教や思想がはなはだしい教線を張りつつあったからです。
こういう状況に対し仏教教団は、依然として、出家者を中心に、閉鎖的な姿勢を続けていたのです。
そのため、他の宗教、思想に次第に守勢に追い込まれる形になっていたのです。
そうなったのは釈尊のお亡くなりになったあと、釈尊の教法をよく体得していた直弟子の長老たちが、次第に世を去っていたことが大きな原因でしょう。
すぐれた指導者が教団にいなかったものと思われます。
こういう状況にあって苦慮を重ねるばかりではっきりした手を打てない長老派。
それに対し、進歩派の比丘たちが、思い切った改革をしなければならないと考えるようになったのは、当然と言えるでしょう。
その一つのあらわれが、在家信者の受け入れだったのです。
5、〈在家信者〉は当然、進歩派に同調する
この進歩派の意見に、在家信者たちが同調したのは当然ですね。
在家信者しめ出しの長老たちの意見に、在家の信者たちは、もちろん承服するはずはありません。
団結して抗議していたのです。
出家者のみが救われ在家のものは永久に救われない、というような片手落ちで不完全なものを釈尊が説かれるはずがない。
もしそうであるとしたら、仏教は在家のものにとって全く無用のものと言わねばならなくなる。
とすると、自分たちはいったい何のために仏教を信仰するのか?
ここの当然の質問と抗議にも、長老たちは沈黙したまま、態度を変えようとしなかったのです。
結局、進歩派の比丘たちと、在家の信者たちが同調して、集会を開くことになりました。
これを「大結集(だいけつじゅう)」と言います。
この大結集の結果、進歩派の比丘たちは、教団を離れて、独立するのです。
これが「大衆部」です。
このようにして、釈尊の教団は初めての“大分裂”を起こしたのです。
それまでは、修行者の個人の離反はあったものの、教団としての分裂はありませんでした。
しかし、時代の変化によって、大分裂をしてしまったのです。
今回は、「根本二大分裂」の背景とそれぞれの主張を簡単にまとめました。
ここから始まる、『大乗仏教』の始まりと歴史については、また、別のページで扱いたいと思っています。
対立した〈長老部〉と〈大衆部〉
- 〈上座部〉または〈長老部〉・・・在家信者の受け入れには反対
- 〈大衆部(だいしゅぶ)〉・・・進歩派で、在家信者を受け入れる
3、まとめ
- 釈尊滅後、およそ百年から百十年くらいで、仏教の教団が大きく二つに分裂した
- 在家信者の受け入れには反対の〈長老部〉と、在家信者を受け入れる〈大衆部〉
- その背景には、当時の社会構造の変化があった
- 〈大衆部〉がのちに『大乗仏教』を作った。
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