前回は、『阿含経(あごんぎょう)』が、どういう性質の経典なのかについてのお話をしてきました。
『阿含経』は、無数にあるたくさんの経典の中で、ブッダ釈尊の教法を説くただ一つの経典です。
今回は、その『阿含経』が出来上がるまでのプロセスのお話をしていこうと思います。
Contents 目次
1、ブッダ釈尊の死、〈般涅槃〉
1、80歳という、超高齢で亡くなる
釈尊はいま、最後の力をふりしぼって、「クシナーラに行こう」と言いました。
そしてウパバッタナという村へたどり着いた。
釈尊はその地の2本の沙羅双樹を指して言った。
「アーナンダよ、私は疲れた。横になりたい。
あの沙羅双樹のあいだに床を敷いてくれ」
「かしこまりました、世尊」
とアーナンダが答えて、床を敷くと、釈尊はそこに臥した。
その地で、釈尊は弟子や彼を慕う大勢の人々に囲まれて、その偉大な80歳の生涯を終えたのです。
ブッダの死のことを、仏教の言葉では「般涅槃(はつねはん)」といいます。
これは「完全なる寂静」という意味です。
釈尊がお亡くなりになり、人々は嘆き悲しみ、そのなき声はやむことがなかったといいます。
この当時のインドの平均寿命は20歳前後だったといいます。
その時代において、80歳というのは超高齢だということです。
そこまで生きられて、最後の最後まで弟子たちの指導のためにご活動されたのは、驚くべきことですね。
弟子たちの中には、
「ブッダというものは、死なないのかもしれない」
と思っていた人もいたのではないでしょうか。
2、師が亡くなったことを旅先で知ったマハー・カッサパ
さてこの時、長老のマハー・カッサパ(摩訶迦葉)は旅していて、その場にはいませんでした。
すでにシャーリプトラ(舎利弗)、モッガラーナ(目連)という昔からの偉大な弟子もすでに亡くなっております。
ですからマハー・カッサパが、釈尊の教団の中では一番のリーダー的立場にあったのです。
旅の途中、一人の邪命外道(仏教以外の苦行者のこと)と会ったのです。
そこでその男に、師である釈尊のことを尋ねたのです。
「友よ、われらの師のことをご存じではありませんか?」
すると、男は答えました。
「知っておりますよ。沙門ゴータマ(釈尊のこと)は般涅槃されて、今日はすでに七日です」
こうして、マハー・カッサパは、師である釈尊が亡くなったことを知ったのです。
3、老修行僧の驚くべき暴言
さて、釈尊がお亡くなりになって大勢の人々嘆き悲しむ日々の中、一人とんでもない人が現れます。
それがスバッダという老修行僧です。
彼は、皆に向かって、なんと次のようなことを言ったのです。
「友よ、憂うるなかれ、嘆くなかれ。
われわれは、いまや、かの大沙門から脱して、自由になることが出来たのです。
かの大沙門は、大変にやかましい方でした。
〈こんなことはしてはいけない。あれはするべきだ〉
と、口やかましく言って、われらを悩ましてきました。
いまや、かの大沙門はすでにいないのだ。
われわれは、これからは、欲することをなし、欲せぬことはなさないでよいことになったのだ。
これはむしろ喜ぶべきことなのだ」
と。
まぁー、なんていうことを言うお弟子さんでしょう。
この老僧侶は、皆を慰めるためにこんなことを言ったのでしょうか。
それとも認知症にでもなって、正常な判断が出来なくなっていたのでしょうか?
あるいは、本心でそう思っていたのかもしれません。
釈尊の直弟子の中にも、いろいろな人がいたようですね。
2、マハー・カッサパの提言で始まった〈結集〉
1、ブッダの尊い教えを、きちんと整理して残さなければならない
この暴言に、誰もが驚き、黙っていました。
教団の中心的人物であるマハー・カッサパも、黙ってそれを聞いていた。
このままでは偉大な師・釈尊の教えはいつの日か必ず散逸してしまうと考え、師の教えを整理、体系化することを決心したのです。
そこで、マハー・カッサパはみなに言ったのです。
「友たちよ、われらは、速やかに、ブッダののこされた教法と戒律とを結集し、非法おこりて法おとろえ、非律おこりて律おとろえ、非法を説く者強く、非律を説く者強く、正律を説く者弱くならんことに先んじよう」
と。
この提言は、当然、集まっている比丘たちの賛成を得ます。
そこで、彼は、500人の長老の比丘たちを選ぶことになりました。
マハー・カッサパが長老を選んだところ、500人に一人足りなかった。
比丘たちは、マハー・カッサパに言いました。
「大徳よ、ここに長老アーナンダ(阿難)がおられます。
なお有学でありますが(まだ修行中であるということ)、もはや、貪瞋痴のために非道に堕ちることはないでしょう。
しかも彼は世尊にずっと付き従って、多くの法と律とを学んでいます。
だから、長老アーナンダをもお選びください」
と。
つまり、釈尊が亡くなった時点では、アーナンダはまだ、完全解脱していなかったのですね。
2、アーナンダ、ついに解脱する
そのころアーナンダは、
「明日は集会である。でもわたしはまだ、修行中の身だから、集会に赴くことはふさわしいことではない」
と思って、
「夜もずっと身を正し思いを凝らして過ごしていた。
夜も過ぎて暁に臥せんとして、身を傾け、頭はいまだ枕にいたらず、足はすでに地を離れたその瞬間に、解脱にいたった」
といいます。
こうして、完全解脱を果たして阿羅漢になったアーナンダも集会に出たのです。
こうして、ラージャガハ(王舎城)の郊外の七葉窟に500人の阿羅漢が集まって、釈尊ののこした教法と戒律を確認しあったのです。
3、『第一結集』が始まる
こうして集会が開かれたのです。
この時、教法(経)はアーナンダが記憶を引き出して読み唱えました。
経典の冒頭に出てくる「如是我聞(このように私は聞きました)」の「私」というのは、アーナンダのことです。
そして、戒律(律)の方は、ウパーリが読み唱えたのです。
ウパーリは「持律第一」と言われる高弟です。
- 教法・・・アーナンダが読み唱える(経)
- 戒律・・・ウパーリが読み唱える(律)
この会議のことを『第一結集』と言います。
3、『三蔵』の成立までのプロセス
1、〈結集〉とは
「結集」と書いて、「けつじゅう」と読みます。
これは、「合誦(ごうじゅ)」とも言います。
これは次のような方法でおこなあれたようです。
七葉窟に500人の阿羅漢が集まって、まず、アーナンダ、あるいはウパーリが釈尊の説いた教法、または戒律を思い出して唱えます。
集まったほかの弟子たちが、皆で内容に間違いがないか、それを吟味します。
間違いがないとなると、それを一定の形式に整えられます。
「合誦」というのは、コーラスのことです。
皆で、一緒にお唱えして、その記憶の中に納められるのです。
これが記憶の時代における編集の仕方なのです。
経典を読んでみると、一つのお経の中に、おなじ内容のセリフが何度も繰り返し登場することがしばしばありますね。
これは同じセリフを繰り返すことによって、記憶を定着させようとしているから、そうなるのです。
2、〈記憶〉が重要な時代
ちなみに、昔はどこの文化であっても、今日のようにすぐに文章や言葉が文字で残されることはありませんでした。
日本では「古事記」がありますが、最初は記憶によって伝えられたのです。
そのような文字の未発達な古代においては、〈記憶〉というのは、今日のわれわれが想像している以上にはるかに重大な役目を演じていたのです。
現代の私たちを振り返ってみても、スマホの普及していなかったほんの10年前くらいに比べてみればよくわかります。
電話番号は覚えなくなったし、漢字を読むことはできても書くことが出来にくくなったっていう人は多いはずです。
何かをメモするときにも、スマホで撮影して済ますこともできます。
このように世の中の状況が変われば、〈記憶〉に対する重要性も変わってくるのですね。
〈古事記〉
釈尊の時代のインドでも、記憶による経典の編集が行われたのです。
さて、こうして編集されたものが、のちの経蔵・律蔵となったのです。
その後に、弟子たちの理論づけである論蔵がくわわって、次のように「経・律・論」の「三蔵」が成立するのです。
- 経・・・教えや説法
- 律・・・戒律、仏教教団の規則
- 論・・・経や律に対しての注釈書
やがて、それらが文字をもって記されたのが、今のアーガマ(阿含経)ならびに、律蔵の原型となります。
以上、今回は、『阿含経』の成立のプロセスについて描いてみました。
4、まとめ
- 釈尊は、80歳という、当時としては超高齢まで活躍して亡くなった
- 老修行僧の暴言により、マハー・カッサパは、釈尊の教えの整理と体系化を決意した
- ラージャガハ郊外の七葉窟に500人の阿羅漢が集まって、釈尊ののこした教法と戒律を確認しあった
- アーナンダが釈尊の教法を読み唱え、ウパーリが戒律を思い出して唱えた
- 経典の冒頭に出てくる「如是我聞(このように私は聞きました)」の「私」というのは、アーナンダのこと
- この時代は、すべて〈記憶〉によって編集された
- やがて、それらが文字をもって記されたのが、今のアーガマ(阿含経)ならびに、律蔵の原型となる
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