みなさん、こんにちは。
前回は、大乗仏教の成立のプロセスを書いてきました。
今回は、大乗仏教の数々の経典(お経)が、どのようにして作られたのか、その《内幕》のお話をしてみたいと思います。
Contents 目次
1、仏教最初の大分裂
1、「アーガマ」をもたずに飛び出した大衆部
釈尊(ブッダ、釈迦)がじっさいに教えを説かれた仏教を『根本仏教』と言います。
では、そこで、釈尊は、弟子たちにいったい何をお説きになったのでしょうか?
それは次の二つになります。
- 〈教え〉として・・・『縁起の法』
- 〈法〉として・・・・修行法(成仏法)『七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうほん)』
です。
さて、釈尊がお亡くなりになってから、初期の仏教教団は次第に分裂の兆しが出始めました。
どんな組織でも、分裂を繰り返すものです。
釈尊の教団も例外ではありません。
釈尊没後、その直弟子もしだいにいなくなると、僧侶たちや在家の信者たちの修行や信仰に対する考え方の違いが表面化してきました。
現代のように肉声を録音したテープもなければ、記録映像もない時代です。
孫弟子以降になってくると、意見の対立が目立ち始めたのです。
そして約100~110年頃に最初の大分裂が始まります。
それが『根本二大分裂』と呼ばれるものです。
それは次のよう二つに分かれたのです。
- 上座部(長老部。保守派)
- 大衆部(だいしゅぶ。進歩派)
です。
そして、大衆部は、これまでの教団を去ったのです。
実際には追放された、と言ってよいでしょう。
この大衆部が去るにあたって、上座部は、釈尊の教えを記録したすべての文書の持ち出しを禁じたのです。
この文書はとは、アーガマ(Agama。「伝承するもの」という意味)と名付けられました。
それは、パーリ語では、『パーリ五部』となり、漢訳では『漢訳四阿含〈阿含経・あごんぎょう〉』として今に伝わっています。
阿含経典〈1〉存在の法則(縁起)に関する経典群 人間の分析(五蘊)に関する経典群 (ちくま学芸文庫)
2、こうして自分たちの独自の経典を、あらたに作り始めた
さて、教団を去った大衆部の若い僧たちは、アーガマのかわりに、自分たちの主張を盛った経典を、次々と製作し始めたのです。
教団に残った上座部の僧たちを「小乗(ヒーナヤーナ)」と呼んで軽侮批難したのです。
そして、自分たちを「大乗(マハーヤーナ)」と呼ぶことにしたのです。
自分たちこそ、釈尊の真意を継ぐものであるとしたのです。
そうした自分たちの主張をテーマとした「経典」を、次々とつくりだしていったのですね。
2、大衆部の大きな二つのあやまち
しかし、ここで、これらの経典を製作した作者たちは、二つの大きなミスを犯してしまったのです。
それは次の二つです。
- 自分たちが作った経典を「仏説」として話を、創作してしまった(つまりフィクションを作った)
- 釈尊が弟子たちに伝えた修行法『七科三十七道品』を、新しく作った経典の中にまったくいれなかった
これは、ミスというにはあまりにも大きな過ちと言えるでしょう。
そしてそれは、意図的なミスなのです。
それは、どういうことでしょうか?
1、自分たちが作った経典を「仏説」として話を、創作した
自分たちが作り出した経典の冒頭に、「仏説」と記して釈尊を登場させたのです。
そして、あたかも釈尊が実際に説いた経典であるかのように、装ったのですね。
さらには、阿難、舎利弗、魔訶迦葉などの十大弟子たちも、経典の中に登場させました。
つまりは、舞台劇のように、新たな物語を作り上げていったのです。
それは「アーガマ(阿含経)」と同じ体裁をとっていたのです。
そして、その中で、釈尊をはじめとする登場人物に、自分たちの主張を語らせたのです。
こんために、後世の仏教者たちは、これらの偽作経典がすべて、実際に釈尊の説かれたものであると信じてしまったのです。
あの大天才の天台大師・智顗ですら、コロッと騙されてしまった。
智顗の「五時教判」も、ここから出ているのです。
〈天台大師 智顗〉
仏教界最大の〈しくじり先生〉・・・天台大師・智顗(ちぎ)が犯した、大きな“過ち”
2、『七科三十七道品』を、新しく作った経典の中に入れなかった
これは仏教教団としては、致命的な欠点といってもよいのですね。
なぜならば、この修行法『七科三十七道品』こそが、釈尊が心血をそそいで完成して、弟子たちに教えたものだからです。
それ抜きにしては、仏教の目的である、すべての悪業を断ち切って仏陀(アラカン)になることが出来ないからです。
つまり成仏する(ホトケになること)ことが出来ないからです。
では、なぜ、新しい経典制作にあたって、その最も大切な修行法を入れなかったのでしょうか?
3、大乗仏教経典に、〈ブッダの修行法〉が書かれなかった理由
ではなぜ、釈尊が弟子たちに教えた修行法『七科三十七道品』を、大乗経典に入れなかったのでしょうか?
その理由は、おもに次の3つにあります。
- すでに釈尊直説の成仏法の修行法を、知る人がいなくなっていた
- 在家信者向けに経典が書かれたので、修行法は邪魔だった
- 上座部とは違う趣向を取り入れる必要があった
です。
1、すでに釈尊直説の成仏法の修行法を、知る人がいなくなっていた
大衆部の経典制作者たちの中に、釈尊直説の成仏法の修行法である『七科三十七道品』をじっさいに知る人がいなくなっていたのではないかと思われることです。
釈尊没後、すでに百数十年もたっています。
現代と違って、パソコンやインターネットもない文書の記録なども、あとの人たちにほとんど伝わらない時代です。
伝わるのは師から弟子への口伝がふつうです。
修行が中心の上座部ではない、大衆部の僧侶たちは、成仏法の知識も認識も、失われてしまっていたのではないかと考えられますね。
2、在家信者向けに経典が書かれたので、修行法は邪魔だった
大乗経典は、ほとんど在家の仏教信者たちに向けて書かれたものです。
ですので、むずかしい釈尊の成仏法など、説く対象ではなかった、ことも大きな理由です。
“修行法”は無用、というよりも、むしろ邪魔だったかもしれません。
3、上座部とは違う趣向を取り入れる必要があった
成仏法を入れたら、彼ら大衆部が小乗と卑しむ上座部仏教と、何ら変わりないものになってしまうから、とも考えられます。
したがって、上座部とは、違う趣向を採り入れる必要があったのです。
以上の3つの理由で、大乗経典には、成仏法『七科三十七道品』が入れられなかったのですね。
こうして、釈尊の成仏法が欠けてしまった欠陥経典に、「仏説」というレッテルが張られて、盛大に世に広められていったのです。
4、「慈悲」を新たに取り入れた〈大乗仏教〉
1、〈大乗経典〉制作にあたっての、一つの難問とは?
では、〈大衆部〉が捨てた修行法『七科三十七道品(成仏法)』の代わりに取り入れたのは、何だったのでしょうか?
実は、そこには大きな趣向が凝らされたのです。
と言いますのは、〈経典〉の制作にあたって、重大な問題が生じていたのです。
それは、いくら大衆向けの大乗経典といえども、仏教経典です。
そうであるからには、究極的には「成仏の達成」ということを、かかげなければなりません。
つまり、「この経典の説くところに従えば、必ず成仏できるぞ」と主張することなのです
しかし、釈尊の修行法『七科三十七道品(成仏法)』を除外してしまったわけですから、いったいどうすればよいのか⁉︎
という難問に突き当たったのですね。
2、新しいアイデア、「慈悲」というもの
これは愛変な難問でした。
しかし、新しい“仏教”の経典を作り出すほどの人たちです。
頭のいいい彼ら、大乗経典制作者たちは、苦もなくこの難問題を解決したのです。
それは、
仏の「慈悲」によって、成仏する
という方法を打ち出したのです。
これは素晴らしい名案でした。
仏の慈悲を強調拡大することによって、信者たちに、
「なんらの修行も苦労もなく、やすやすと成仏することができるのだ」
と説いたのです。
この難問が解決できたところから、大乗経典の制作が、ドンドン加速されたのですね。
これが、大乗経典の制作のプロセスであり、内幕なのです。
今回は、大乗仏教な始まりにぜったい必要不可欠だった、自分たちの新しい〈経典〉制作の内情を見てきました。
4、まとめ
- 釈尊は、修行法として、成仏法『七科三十七道品』を弟子たちに説いて残した
- 大衆部は、自分たちが作った経典を「仏説」として話を、創作してしまった
- そして、修行法『七科三十七道品』を、新しく作った経典の中にまったくいれなかった
- 後世の仏教者たちは、これらの偽作経典がすべて、実際に釈尊の説かれたものであると信じてしまった
- 「慈悲」を打ち出すことにより、大乗経典の制作は始まっていった
【参考文献】
『お坊さんのための「仏教入門」』(正木晃著、春秋社)
『バウッダ・佛教』 (中村 元、三枝充悳 著、小学館)
『近代仏教への道』(増谷文雄著、角川書店)
『君は誰の輪廻転生か』(桐山靖雄著、平川出版社)