みなさん、こんにちは。
今回も〈生まれ変わりに〉についての2つの実例の報告をご紹介します。
〈生まれ変わり〉事例をどう考えるかは、人それぞれによって受け止め方が異なります。
今日は、その受け止め方の「心理」について考えてみたいと思います。
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Contents 目次
1、多くの証言がある「死後の世界」
はたして、〈生まれ変わり〉って本当にあるのでしょうか?
人間は誰しも、いずれ必ず死にます。
この世に生を受けたものは、すべて有限の命を生きているのですね。
人間はまだ寿命が長い方です。
動物は通常、もっと短い一生で終わっていますね。
では、死んでそれで終わりなのでしょうか?
死んですべてが〈無〉になってしまうのでしょうか?
それとも〈あの世〉なるものが存在して、そこで「生きて」いるのでしょうか?
こうした疑問は、人類の歴史の中で何千年、何万年も前から存在したでしょう。
「死んだら、それですべてが終わりだ」と片付けてしまうのは簡単です。
でも実際には、「死後の世界」なるものがあるのではないかと、強く思わせる出来事が世界中に多数、存在するのですね。
古今東西、死後の世界を裏付ける不思議な体験や証言が、数え切れないくらいあるようです。
ここでは、『前世を記憶する子どもたち』(イアン・スティーヴンソン著、日本文教社)に紹介されている例をみていきましょう。
2、前世で死んだことに気づかずに、最初の言葉を話した子ども
1、死後も、そのまま生きている感覚のままで生まれ変わった子ども
まずは、死んで生まれ変わった後にも、そのことに気づかずにいた事例です。
今世では、本人としてはあたかも、前世での生活状況を継続している感覚で、育っていった例です。
そして、やっと言葉を話せるようになった時に、驚くべき内容の第一声を話した事例です。
前世を記憶する子どもたちの中には、まるで成人の肉体からいきなり引き出され、頼りない幼児の体に押し込まれでもしたかのようにふるまうものもある。
例えばセラル・カパン(トルコ)は、言葉を話すようになった時、一言目か二言目に、「ぼくはここで何をしているんだ。港にいたのに」と言ったという。
言葉がもっと話せるようになった段階でセラルは、船ににを積み込んでいる最中に船倉で眠り込んでしまった港湾労働者の生涯について詳細に語った。
運が悪いことに、クレーンを操作していたとこが、その労働者がそこにいるのも知らず、油の入った重いドラム缶を落とし、本人を即死させたのであった。
このような証拠から考えると、眠っていたこの男性は、二歳の幼児の体内で目を覚ました、とも言えよう。
この事例では、前世での最後の状況を覚えていて、自分が死んだとは気づかないままに、今世に生まれ変わって最初の言葉を話している例です。
前世と今世との間の〈あの世〉の記憶はないようです。
あたかも〈あの世〉を通らずに、あるいは、ごく短時間のみ通過しただけで、再び〈この世〉に、別の肉体に赤ん坊として魂が移ったような例です。
前世の死亡日から、今世に生まれるまでの期間は記されていないので変わりません。
おそらく短時間だったと推測されます。
2、前世に〈強い執着〉を持つ子どもたち
子どもたちが、前世について話すときは、あたかもつい昨日の出来事であったかのように話すことがあるようです。
そして、そのためか、記憶に残っている人物や出来事に強い執着を示し続けます。
涙を流しながら前世の話をするものもあるようです。
さらに、前世で自分を殺し、その生活に終止符を打たせた殺人犯に対して怒りに震えながら避難する者もいるようです。
では、次に、〈あの世〉ならぬ〈この世〉での「死後の世界」をも記憶している例をみてみましょう。
3、死んで7年間も樹の上で過ごした人
次は、前世での自分の死の状況と、その後の状況を記憶している少年です。
1、自分が殺されたことを自覚していた少年
ボンクチ・プロムシンは1962年2月12日に、タイのドン・カ村で生まれました。
まとまった話ができるようにになるまで成長するとすぐに、前世について話し始めたといいます。
(ボンクチは)チャムラットという前世の人格の名前とともに、チャムラットの両親の名前を口にした。
ナイフや自転車などかつて自分が持っていたものについても語り、家で二頭の牛を飼っていたことも話した。
最終的に本人は、ファ・タノンで行われた村祭りの日に、ふたりの男に殺されたときの模様を語ったのである。
犯人たちは本人に数箇所の刺傷を負わせたうえ、腕時計と首飾りを奪い、野原に遺体を投げ捨てて逃走したという。
ボンクチがこの話を、話し始めたのは、2歳ごろだったと言います。
続きをみてみましょう。
ボンクチによれば、チャムラットが死んでから本人は、現場付近の樹上に七年ほど留まっていたという。
そして、ある雨降りの日に、(現在の)父親の姿を見つけ、バスに乗って自宅に帰る父親について行ったというのである。
ボンクチの父親がその後思い出したところでは、妻が、ボンクチを妊娠してまもない頃、ファ・タノンまで出かけてことがあったという。
そこで行われたある会合に出席したのであるが、その日は雨が降っていたというのである。
この例では、前世で殺されて、その場面を記憶しています。
さらに死亡した後もその場所で、樹の上で、なんと七年間もいたと言います。
そして現在の父親になる男性がそこに来た時に、そのままついて行って、現在の家に行き、母親の元に生まれ変わっているというのです。
そこまで記憶を持っているというのも驚きですね。
ボンクチは前世での死後、いわゆる〈あの世〉ではなく、〈この世〉の野原で過ごしていたようです。
死後の世界では、食事とか排泄はしないで済むのでしょうか?
それはわかりません。
2、前世での習性がそのまま残っていた
さらにボンクチは、成長するにつれて、家族からすると不可思議な習性を見せるようになったと言います。
それをみてみましょう。
前世に関連した発言が一番多かった時期には、手を洗う時などに、家族の者からすると不潔な行動を示したし、両親には理解できない言葉をかなり使っていた。
ボンクチはまた、家族があまり食べないものや喜んでは食べないようなものを非常に好んだ。
チャムラットの一家は(タイ人が、清潔という問題については自分たちよりも気を配らないと考えている)ラオス人であり、ボンクチが口にしていた聞き慣れない言葉はラオス語だったことがわかった。
ボンクチ少年は、清潔感覚や食べ物の好みに対して、通常のラオス人とは違った感覚を持っていたようです。
ここで、タイ人の家庭に生まれたボンクチが、前世で使っていた言葉(ラオス語)を使っています。
これは「真正異言」という現象です。
「真正異言」とは
通常の方法では習ったことのない外国語を話す能力のこと。
信ぴょう性のある真正異言の事例は、人間の死後生存を裏助ける重要な証拠となります。
しかし、前世で別の言葉を話していた記憶を持つ子供でも、顕著な形では出現しないといいます。
さらに、年齢に似つかわしくない行動をもするようになったのです。
多くの事例と同じく、ボンクチも、おとなの自分が不当に子どもの体に幽閉されていると考える事が時おりあった。
しばしばボンクチは、“おとな発作”とでも言うべきものを起こした。
おとなのように歯を磨き(タイでは子どもはふつう歯磨きをしない)、近くのとこやで髭を剃ってほしいと言ったこともあった。
ボンクチは、同年輩の少女を無視したが、思春期を過ぎた若い女性には近づいた。
このように、生まれ変わったあとは、前世の習性や嗜好が今世にも受け継がれています。
ちなみに、ボンクチは10歳までには前世の記憶の大半は失われてしまったそうです。
そしてしだいに、“正常な”発達を遂げるようになったそうです。
4、〈生まれ変わり〉を頑なに否定する人の心理
1、「死んでそれで終わり」とは簡単に片付けられない
こうした事例から分かるように、人は死んでそれで終わりとは簡単に片付けられないようです。
宗教上の理由で、〈生まれ変わり〉や〈死後の世界〉の存在を否定する人は無数にいます。
宗教上の理由ではない場合であっても、〈生まれ変わり〉を認めない人もいます。
でも、そうはいっても、現実問題として、こうした様々な前世の記憶を持つ人たちの証言があることは、否定できません。
これを、どう説明するのでしょうか?
そうした証言をした人たちを、それは単なる「空想」とか「幻覚」だとかいうのでは、誰も納得させられないでしょう。
2、〈生まれ変わ〉ってしまうと、不都合な事情
宗教上の理由がないにも関わらず、頑なに〈生まれ変わり〉の事実を否定する人は、なぜそんなに頑固なのでしょうか?
ここで一つの推測です。
「死んだらそれで終わりで、あとは何も残らないのだ」という人は、むしろ、〈死後の世界〉が存在すると困る“不都合な事情”があるのやもしれません。
ただ、その“不都合な事情”は、本人にも意識されていない、無意識の奥底に隠されていると考えられるのです。
例えば、
「自分は将来において、非業の死を遂げるかもしれない。そして死んだ後も、〈あの世〉で長らく苦しい人生を送るのだろう」
と、無意識的に感じ取っている場合です。
本人のこれまでの“経験上(⁉︎)”、「死後の世界は長くて苦しみの世界だ」と心の奥底で感じている場合です。
そうした人の場合、〈死後の世界〉はあってはならないものと考えるかもしれません。
このような人にとっては、〈死後の世界〉が無ければ、どんなに気楽でしょうか。
これは一つの例にすぎません。
もっと別の“不都合な事実”があって、かたくなに〈生まれ変わり〉を否定する人もいるでしょう。
書籍はもとより、テレビやYouTube、雑誌などでも、死後の世界の存在を裏付けるさまざまな証拠が、発表され放映されています。
そうした時代においても、頑なにそれを否定するのは、
むしろ逆に、無意識の部分では、「死後の世界」を強く感じ取っているからではないか
とも、私には思えるのです。
5、死後の状況は、人によっていろいろなパターンがある
1、人それぞれに違う死後の様子
さらに、死後の状況は、人それぞれ違うということもわかります。
死んですぐに次の人生に生まれ変わってしまう場合もあれば、長い年月を経てから生まれ変わる場合もあるようです。
別の事例ではいわゆる〈あの世〉の様子が描かれているものもあります。
〈あの世〉にも、いろいろな層で存在しているのかもしれません。
このように人によって、いろいろなパターンがあるようです。
今後、そうした違いについて、さらに探求していこうと思います。
2、「横変死を遂げた場合」は、記憶率が高い
また、前回にも少し触れましたが、前世での死に方によっても違いが出てくるようです。
自然死の時よりも横変死(事故死、他殺死、自殺)を遂げた時の方が、死の状況を記憶している比率が高いようです。
今回挙げた2例とも、前世では横変死しています。
これについては、『前世を記憶する子どもたち』の著者イアン・スティーヴンソンは、次のように述べています。
非業の死には、被害者が頭部や頸部の負傷により即意識を失う場合を除けば、極度の身体的苦痛を伴うのがふつうである。
また、非業の死はほとんどが突然、予期しない時に訪れるものである。
(中略)
したがって、横変死を遂げた後、生まれ変わってその記憶を残していると思しき者にその出来事が与えられた影響を考える場合、残虐性ばかりでなく、それに伴う身体的苦痛や、死が予期しない形で早い時期に起こりすぎたなどの要素も、すべて考慮に入れる必要がある。
確かに、やり残したこともなく満足して天寿をまっとうした場合よりも、予想外に早く死亡してしまった場合には、「生まれ変わりたい」という強い願望が出てくるのは当然かもしれませんね。
早く生まれ変わったがために記憶を持っている、とも考えられるのです。
こうしたことははっきりとは答えが出せることではありません。
はっきり言えることは、死後の行方は、人それぞれによって、いろんなパターンがあるということでしょう。
今後はそれをさらに追求していこうと思います。
君は誰れの輪廻転生(うまれかわり)か
子どもはみな前世を語る
【参考文献】
『前世を記憶する子どもたち』(イアン・スティーヴンソン著、日本文教社)
『君は誰の輪廻転生か』(桐山靖雄著、平川出版社)
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